水産物流通情報誌― 全水卸 VOL.401試し読み
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[用宗の水産業]久能山東照宮◇用宗漁港の歴史静岡市駿河区用宗(もちむね)は、静岡市の中心部にあるJR静岡駅から東海道線・普通電車で2駅7分の小さなみなと町です。町名の由来は、昔からこの辺りは駿河湾に面する天然の良港があり、漁民が舟を持つことから「持舟」の地名で呼ばれ、それがやがて転化して「用宗」になったとのことです。用宗駅から歩いて5分ほどの用宗漁港は世界有数の水深を持つ駿河湾に面し300年以上の歴史を刻んできました。安倍川から豊かな真水が流入する深い海底は魚類の恰好な住処となり、沿岸漁業のメッカとして近隣のカツオ・マグロの水揚げで有名な焼津漁港とともに発展してきました。また、用宗の名産の一つがシラス、その最大の理由は、とにかく漁場と港が近いこと。鮮度が命のシラスにとっては特に重要なことで、ここでは水揚げから10~15分ほどで市場に運び込まれセリにかけられます。二点目は海が栄養豊富であること。安倍川や大井川、興津川などの河川によって南アルプスや富士山といった山の恵みが駿河湾に運び込まれ、餌となる大量のプランクトンが発生します。さらに日本一の深度を誇る湾の中には3種類の海洋深層水が存在し、栄養満点の海水が湧昇流によって運ばれてきます。そして三点目は水質の良さ、用宗の海に流れ込む安倍川は平成の名水百選にも選ばれ、静岡市街地のほとんどが安倍川の伏流水と地下水が使われているほどで、安倍川の上流にはワサビ栽培の発祥地があるほどの清流です。[鞠子のとろろ汁]用宗から山側に向かって5km程行くと、そこは東海道五十三次20番目の宿場である鞠子宿(まりこのしゅく(現在の静岡市駿河区丸子))、名物は「とろろ汁」です。地元産の自然薯(山芋)をすりおろし、だし汁と味噌で割ったものを麦飯にかけて食べるのが静岡流。歌川広重の東海道五十三次・丸子には「名ぶつ とろろ汁」の看板を掲げた小さな茶店が描かれているほか、十返舎一九の東海道中膝栗毛に鞠子の名物として描かれたことからその名が広まったとか。また、松尾芭蕉は『梅若菜 丸子の宿の とろろ汁』の一句を残しています。この東海道五十三次に描かれた1596年創業のとろろ汁の老舗『丁子屋』は今も丸子に現存しています、現地に行かれたらぜひお立ち寄りを。[“どうする家康”]徳川家康75年の生涯で最も長く暮らしたのが駿府(静岡)です。生涯3度、合わせて25年、人生の3分の1を駿府で過ごしました。最初は8才から19才まで今川氏の人質としてですが、その暮らしは決して惨めなものではなく、今川義元の親戚にあたる築山殿を妻とし今川家の親族として穏やかに暮らしたとのこと。二度目は45才から49才まで五カ国を治める大大名として、最後となる三度目は66才から75才で亡くなるまで「大御所」として「隠居生活」を送りました。しかし、この時代も全国統治の命令を発するなど隠居とはほど遠く、変わらずに最高権力者として振る舞っていたものと思われます。家康の墓所といえば「日光東照宮」と思われていますが、家康の遺言は『日光に祀れ』であって『日光に埋葬せよ』ではなかったとのこと。静岡市民は今も殿は『久能山東照宮』に眠っていると信じていますぞ! ”どうする家康”用宗漁港は、現在の海岸からは想像できませんが、古書「駿河の国風土記」によれば「安倍郡持舟往返の諸帆尽く此の湊に入る」とあり、持舟村(今の用宗)は手越原あたりまで入り江に面した湊であり、沿岸漁業発祥の地で、隣村の益津郡焼津湊(現在の焼津漁港)と共に発展を続けてきました。漁場は駿河湾の清水湊より石部浜までの約7里(約28Km)の間で、安倍川の流入する急深な沿岸は魚類にとっては恰好な住み家となっています。 (用宗漁港から霊峰富士を望む)(シラスの水揚げ)(用宗漁港まつり)(静岡市HPより)登呂遺跡静岡・浅間神社丸子の「丁子屋」139地方卸売市場用宗魚市場(静岡県静岡市駿河区)市場のある都市市場のある都市

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